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ブッダの冥想とマインドフルネス

“こころ”の学校

冥想という言葉は最近当たり前のように聞くことができます。
それだけ、なじみ深いものになったのかもしれません。

 

特に若い方達の間から聞く機会が多いように思います。
合わせて「マインドフルネス冥想」ということも本当によく聞きます。
ですから世間での認知度も高いと思っていました。
 
しかし、各地出講し冥想の話しもするのですが、
「マインドフルネス」という言葉に反応する方はほとんどいません。
受講者の方たちが少し年齢が高いからなのでしょうか。
            
マインドフルネスという言葉はアメリカから来たものです。
特にグーグルの社内研修「S・I・Y」で使われ、その研修が他の研修より社員の人気がとても高かったことや、実際その成果が具体的に現れたようで、それが話題にあがったようです。

マインドフルネス瞑想、回復力の瞑想、「愛情に満ちた優しさ」の瞑想、善良さを増す瞑想、などいったものが研修メニューになっています。
   
“瞑想”という言葉がよく使われているのが分かります。

 

このようなグーグルによる影響からか、フェイスブック、インテル、

マッキンゼー、ディズニー、ナイキ、ソニーなどの大手企業が瞑想(マインドフルネス)の効果を高く評価しています。
      
ちなみに、日本でも三菱UFフィナンシャルグループでも社員のために瞑想プログラムを提供しています。
   
この西洋におけるマインドフルネス冥想というものは、

ジョン・カバット・ジン教授によって起こされたと考えられています。

彼が開発したマインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)というプログラムがそれなりの効果を表しているようです。
 
また、ダライ・ラマ14世とならんで、平和活動を行っている釈一行(ティク・ナット・ハン:禅僧)師が、アメリカやフランスにおいて仏教とマインドフルネスの普及を行っていることから“マインドフルネス”という言葉は、精神世界においてもその認知度は高くなっていると思われます。
  
さて、このように認知度が非常に高まっている(特にアメリカ)“マインドフルネス瞑想”ですが、マインドフルネスとはそもそもどういった意味なのでしょう。
 
実は“サティsati”がその語源です。
これはパーリ語でブッダがよく使われてた言語です。
   
つまり、ブッダの言葉なのです。
そして、ブッダが最も重要視していた言葉なのです。

仏教用語(漢字)で“念”と書いてます。
 
サティの意味するところは、「気づくこと」です。
何が起こっているのか、今この瞬間の状況に「目覚めること」です。
   
では、なぜ今の瞬間に「目覚めること・気づくこと」つまりマインドフルネスが注目されているのでしょう。

その理由は、私たちのシンキング・マインド(思い)のスパイラルから抜け出すことが可能だからです。

マインドワンダリング(さまよう心)から解放されることが可能だからです。

頭が思考(言葉)の暴走ではちきれそうになっているのが、現代人です。
この思考の暴走はとてつもないエネルギーを使うことになります。
   
そして一貫性がありませんから、結論が出ないことを考え続けることになります。
全然まとまらないのです。終わることがありません。

結局いつもモヤモヤした状態、淀んだ状態、重い状態に心がなってしまうのです。
  
こんな状態で、能力を発揮することなどできるはずありません。
また、心が静かに落ち着くこと、深い安らぎを得ることなど夢のまた夢のことです。
  
心も身体も疲れきってしまいます。
やがて、それは心の病となったり、身体の病となったりするのです。
 
サティは「今この瞬間に気づくこと・目覚めること」です。
 
シンキング・マインドというのはとても愚かなもので、
未来に対する不安、そして過去に対する後悔、恐怖を思う存分味わわせてくれます。
  
こういったものはすべて“妄想”です。
しかし、愚かな私たちはそれを妄想と思わず、その世界に入ってしまいます。
  
そして、実際に“今この瞬間”に起こっていないことなのに、
起こっているような錯覚に入り、煩悩(感情)を限りなく生み出すことになるのです。

怒り、嫉妬、不安、憂い、悲しみ、悩み、苦しみ、、、
そういった不善の心を際限なく作るのです。
   
当たり前ですが、それは疲れます。
煩悩(感情)は疲れます。
猛毒なのです。
 
ですから、サティ(マインドフルネス)を使って、
“今、この瞬間”に戻すことを行い、未来、
過去に対する妄想のワナから抜け出すことをするのです。

 

それによってマインドワンダリング(さまよう心)の呪縛から解かれることをするのです。

結果として心に余裕が生まれます。
集中力が高まります。
ストレスが解消されます。
直観力、洞察力が深まります。
   
こういった効果が現れます。

ですから、ビジネス界でもマインドフルネスによる恩恵を受ける可能性が高くなるわけです。
 
若い方たちがマインドフルネスに興味をもたれるのも、
自分の願望実現、自分の能力発揮、などといった成功を求める思いが強いからかもしれません。
      
このように世間で言われる“マインドフルネス瞑想”というのは、
私たちの人生にとても役立つものであると思われています。
   
しかし、本当にそうなのでしょうか?
    

そもそもマインドフルネスというのは、
ブッダが最も重要視した“サティsati”からきているものです。
  
ブッダが生涯説き続けた本題は、
一切の苦しみから解放された“究極の幸福(悟り)への具体的な方法”です。
 
その主役となるが“サティsati”なのです。
   
究極の幸福(悟り)に至る鍵は“サティsati”が握っているのです。
 
究極の幸福に至るのを邪魔するのは煩悩(不善心)です。
その煩悩を滅尽する主役が“サティsati”です。
   
煩悩は“自我エゴ”があるから起こります。
 
「私」「私が」「私の」などいったものです。

“私”といった自我エゴの欲望を満たすために、
マインドフルネス(サティ)瞑想が使われるとしたら、
それは本末転倒なことになります。
 
エゴの欲望とは煩悩です。

つまり、瞑想をすることで煩悩を製造してしまう怖れがあるのです。
 

瞑想をすることが、、
「“私”はライバルに勝つために仕事ができるようになる」
「“私”の健康ために、私の美容のために、人から美しくみられるために」
「“私”の夢を実現することでまわりから賞賛を得たい」
「“私”は他の人と違う存在になりたいから」
このような目的であるとしたら“私・エゴ”を増進させてしまうことになります。
   
ブッダの説き続けたマインドフルネス(サティ)瞑想は、
“私・自我エゴ”を落とすこと、滅尽することです。
      
最近流行のマインドフルネス瞑想は、その目的をよくみてみると、
そのほとんどが“自我エゴ”の欲望を満たすためと言えるように思います。
            
煩悩(欲、怒り、無智)を更に更に生み出すことになるのです。
煩悩は私たちに影のようにつきまとう“苦しみ”のエネルギー源です。
 
つまり、苦しみのエネルギーをどんどん生み出すことになるのです。

それは不幸な人生につながっていくことになるのです。
今世のみならず来世にもそれは引き継がれることになるでしょう。
                
ブッダはよく“邪micchâ”という言葉を使います。
“正”でないことです。
 
このようにみると、今、世間でよく言われる“マインドフルネス瞑想”は“邪”ということになるでしょう。
      
ここで私たちは考えなければならないことがあります。

そもそも「瞑想とは何か?」
ということです。
    
瞑想、瞑想と簡単に言いますが、一体瞑想って何なのか、
また、瞑想はなぜあるのか、どんな意図のもとに生まれたものなのか、、、
その辺をきちんと抑えることがとても大切なことです。
        
瞑想という修習はとても貴重なものです。
その本質を理解したら、私たち人間という生命にとってかけがえの宝物と言うことが理解できます。

 

瞑想はブッダ以前から存在しています。
紀元前2500年頃のインダス文明、モヘンジョ・ダロの都市遺跡で発見された印章にその瞑想の姿(趺坐)が刻まれているものがありますから、とても古い歴史を持つのがわかります。
 
ですから“流行”でもファッションでもありません。
何か私たち人間にとって絶対欠かすことができない“技”なのです。
 
その“技”のすべてを網羅し駆使することができる能力を持った方がいます。
   
それがブッダです。
実はブッダは最上の瞑想者なのです。
そして、最勝の瞑想指導者だったのです。
  
ブッダが説法をする理由は“瞑想”の実践と完成のためだったのです。
ブッダが到達した“悟り・解脱”に欠かすことができない瞑想というものを完成させるためなのです。
 
話しだけ聞いて“悟り・解脱”はありえません。
必ず瞑想を実践しなければならないのです。
   

ちなみに瞑想は大きく二つに分けられます。

ひとつは、「止(samathaサマタ)」瞑想、そしてもう一つが「観(vipassanâヴィパッサナー)」瞑想です。
    
止(サマタ)瞑想は40種類あります。
ブッダが厳選した40種類です。

ブッダの時代も数多くの瞑想法が存在していたのですが、
その中で“邪”になる危険性があるものは排除されました。
それで40種類となったのです。

そのほとんどは道具を必要としません。
道具への“依存”、つまり執着から離れるためでしょう。
ですから、基本は自身のそのままの身体と心だけです。

    
音を生み出すもの(ボウル、鈴、鐘、太鼓など)、音楽、踊り、

幻覚に入りやすい香、そういったものは一切排除しています。
なぜなら“邪”になる危険性があるからです。
つまり、心を汚す恐れがあるからです。 
     
観(ヴィパッサナー)瞑想はブッダが悟りを開かれた唯一の瞑想法です。

“生きる”ということを深く如実に見つめ、

物事の真髄(真理)を理解し体験することで“智慧”を開く技です。
          
ブッダは大きく分けてこの二つの瞑想法を説いて指導していったのです。
 
アメリカでは、今仏教ブームとなっているようです。

それはとても熱い動きを起こしているとのことです。
ある方(僧)によると仏教国と自称する日本がくすんで見えてくるようです。
     
なぜなら“修行”を真摯に行っているからです。
特に瞑想修行です。
   
その方いわく、日本では修行すると変わり者と思われるとのことです。
ブッダ自身悟りを開き、もうこの生の仕事は終えられたのに、

その後も修行は継続されています。
 

それが仏道なのです。

そう考えると、何かおかしいです。
          
まずは禅ZENがアメリカで認知され、それと相まって坐禅なども定着しています。
その主な先駆者、先導者は日本人の禅僧です。
   
そして、今は“マインドフルネス”ブームです。
  
このようにアメリカにおける“瞑想”という存在は、
とても重要なファクター(ビジネスにおいても)となっているようです。
     
そして、“私”という人生を深く洞察する上で、不可欠な存在となっているのです。
            
ですから、人びとは熱心に瞑想修行をするのです。
  
しかし、ここで面白いことが起こっているようです。
 
ミャンマーに、ある有名な出家向け瞑想センターがあります。
その瞑想センターでは、かなり高い次元の瞑想能力が求められます。
  
その決められた階梯のレベルをクリアしない限り、上の階梯には進めないのです。
 
多くの修行者がその段階で脱落していくのです。
その方々は、“あること”ができないのです。
“あること”を理解できないのです。
その脱落していく人たちを見てみると、ほとんどが西洋人だということです。
      
西洋人のほとんどが全滅。
その階梯で求められ瞑想の境地に至ることができないようなのです。
     
その理由は、二元的思考を超越することができないということらしいのです。
二元的とは主体と客体という思考、視点で物事をみることです。
   
あれ・これ。
私・あなた。
有る・無し。

正しい・間違っている。
  
といった思考です。
 
あれだけマインドフルネスが米国で盛んになっているのに、
瞑想の本質を求めようと熱心になればなるほど、
ブッダが説いた瞑想の本質に近づくことができないのです。
   
出家比丘にまでなってブッダの説いた瞑想の本質を究めようと、
ミャンマーの瞑想センターまでいくのですが、

その熱心な修行者の心の“癖”がそれをはばんでしまうようです。
 
「何がなんでも“自分”の力で手に入れる!」
「このスキル、テクニック通りにやれば“私”は必ず出来る!」

こういった“癖”です。
   
瞑想の本質は二元的なものではありません。
そのような次元を超えたところに入って、

その次元から身体・心を如実に観察する。
  
ブッダの説く“瞑想”、そしてサティsati(マインドフルネス)はそこから始まるのではないかと思います。

そしてそこで初めて真理を体験し“生きる”ということ、“生命”ということ、“人間”ということ、そして“私”というものの正体がすっきり理解されるのです。
  
そして、それが一切の苦しみからの解放、究極の幸福につながるのです。
  
本来、ブッダの瞑想という“技”は錯覚の世界から、

真理・真実の世界につながる唯一の鍵なのです。

ブッダの説いたサティsati(マインドフルネス)は、煩悩という心の汚れをスッキリ落とし、
心を清らかにするための“技”なのです。
 

自我エゴの求める欲望・煩悩を増進させるものではありません

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