今回の「新型コロナウィルス」の様々な騒動を観て思うことがあります。
人(生命)は無智である。
無智なのが人(生命)である。
ということです。
そして「無智」である限り安らぎ・安穏はない、ということです。
そのことが今回の騒動でより明らかになっています。
ここで「因縁」について書いてみます。
すべての現象は「因縁」により起こっているだけ、というのがブッダが覚られた教えです。
現象・物事は奇跡でも、神秘でも、創造主でも、、、なく「因縁」により、ただ起こっているだけ、だということです。
私たちも例外ではありません。
「因縁」によりただ心・身体が起こっているだけなのです。
ブッダは因縁についてこのように説かれています。
『これがあるとき、これがある。
これがないとき、これがない』と。
ですから、今回の「新型コロナウィルス」という現象も、もちろんこの「因縁」にあてはまります。
ちなみに智慧第一と称されるサーリプッタ尊者は、まだ修行中の時に五比丘の一人アッサジ尊者から、これを意味する偈(詩)を聴くことができました。
そして、たった二行聴いただけで、預流果(よるか sotāpanna)という覚りの第一段階に到ったということです。
それだけ、深く清らかな偈なのです。
では、「新型コロナウィルス」を「因縁」で考察してみましょう。
感染・感染者という現象が事実としてあります。
では、何があるとき、この現象が起こるのでしょう。
シンプルに考えてみましょう。
当然ですが、「新型コロナウィルス」があるときに、その「感染・感染者」がある、わけです。
ですから、「新型コロナウィルス」がないときには、「感染・感染者」もありません。
それだけです。
とてもシンプルで当然なことです。
「新型コロナウィルス」は、あなたが今すぐに触れる(感染する)ところにいますか。
いなけれれば(なければ)、「感染・感染者」も生じません(ありません)。
ということですね。
このことを知っていれば今回のような「新型コロナウィルス騒動」など起こらないでしょう。
マスクが棚から消えてしまうことも、トイレットペーパーが無いなどのデマも起こらないはずです。
怯えて、不安に苛まれることもないはずです。
「新型コロナウィルス」があるときにのみ、「感染・感染者」もあるのです。
実にシンプルです。
しかし、今、ほとんどの人が、怯えていますね。
何に怯えているのでしょう。
「自分が感染する」ことが怖いからでしょう。
なぜ、感染すると怖いのでしょう。
おそらく、重症・重篤になると思うからでしょう。
そして、それは「死ぬ」のが怖いからと言うこともできます。
しかし、これまでの実際のデータ(WHO)では80%以上の方は軽症で終わっています。
また、感染した人の80%は他に感染させることはない、とのデータもあります。
もちろん世間の人たちは、そのようなことは知っています。
しかし、やはり「怖い」のです。
怯えるのです。
「新型コロナウィルス」=「死ぬ」という思考回路に捕まってしまっているのです。
では、もう一度、もう少し細かく「新型コロナウィルス騒動」を先ほどの因縁の法則にあてはめて考察してみましょう。
私たちが「感染者」になるためには、「新型コロナウィルス」がなければなりません。
「新型コロナウィルス」があるとき「感染者」がある、のですから。
それもあなたのすぐ身近にです。
さて、どうでしょう。
もう一度よくみてみましょう。
私たちのすぐ身近に「新型コロナウィルス」は現れていますか。
「新型コロナウィルス」がその辺に漂っていますか。
どこにでもこのウィルスは現れるのでしょうか。
ずっと前から身近に存在していたのでしょうか。
そうではありません。
「新型」ですから、つい最近出現したばかりのはずです。
もちろん肉眼では見えません。
0.1マイクロメートル(0.0001㎜)という大きさですから、電子顕微鏡でなければ見つけられません。
そして、このウィルスは自力でふわふわあちこち漂うことはできないとのことです。
飛沫という媒体がないと、感染(依存)することができないわけです。
(エアロゾルということも言われていますが、そのような特殊な環境は医療現場以外に起こることはなさそうですが、、)
そして、ウィルスの性質上他の生物の細胞内でないと生きられないわけですから、大気中でずっと生き延びることはありません。
しかし、世間の人たちはその辺にいつもふわふわ漂っているように思っているようです。
私の親もそのようなことを言っていました、、、。
実際のところ、ほとんどの方がこのようなイメージなのではないでしょうか。
「どこかで移るかもしれないから、、、」とよくおっしゃいます。
これも「無知」ですが、最初にこのブログに書いた「無智」とは違います。
話を戻します。
「新型コロナウィルス」がなければ「感染」はしない、となるのですが、実際は私たちのすぐ身近に「新型コロナウィルス」に感染した人、つまり「感染者」がいなければ、ということになります。
先ほど書きましたように、ウィルスは他の生物の細胞内で生きることしかできませんから、感染者(生物)が存在しなければなりません。
ということで、因縁の法則は「感染者」があるとき「感染・感染者」があるとなります。
では、「感染者」とはどのような人になるのでしょう。
自分勝手に「感染者」と名乗ることはできません。
やはり、感染症のプロフェッショナルに判断してもらうしかありません。
そして、「陽性」という認定証をもらわなければなりません。
ですから、実際には「陽性」と認定された人が身近にいるときに、「感染者」がいることになります。
どうでしょう、私たちの身近に厳しい検査の条件を満たした「陽性」の方がいらっしゃるでしょうか。
感染認定証もそう簡単に手に入るものではありません。
「陽性」判定・認定された方は身近にいらっしゃるでしょうか。
いるのであれば、あなたは「感染・感染者」になる、と言えるわけです。
しかし、そう簡単にあなたは「感染・感染者」になることはありません。
ブッダの説かれる「因縁」の法則の「因」とは原因のこと、主たる因のことです。
そして「縁」とは条件のこと、従たる因のことになります。
まず、何か主たる原因があって、それに様々な条件が加わって初めて今の現象が起こる、ということです。
花の種があっても、それだけ(因だけ)では花は咲きません。
土があり水があり光があり、、、などの条件(縁)が揃わないと、その花は咲くことはありません。
因縁とはこのように主たる因と従たる因(条件)のことをいいます。
意味するところは、「主たる因と従たる因がそろって現象は起こる」ということです。
それが、「因縁の法則」であり「縁起」のことでもあります。
「因縁」についての説明はブッダにしかできないほど深淵なものですが、かなり大まかに言ってしまえばそのようなことです。
ということで「新型コロナウィルス」「感染者」が主たる因となります。
それに従たる因が加わらなかったら「感染者」になることはないことになります。
では、従たる因・条件とはどのようなものになるのでしょう。
主なものとして、今分かっているのは、、、
・飛沫感染
「感染者」の咳、くしゃみなどの飛沫(しぶき)を吸引する。
もしくはその飛沫が目や鼻などの粘膜組織にくっつく、こと。
これが飛沫感染の定義です。
飛沫とは水しぶきのことです。
重いですから、秒速30㎝〜80㎝ですぐ落下してしまいます。
では、どのくらい近づけば、吸い込んだり、目や鼻に付着することが可能になるのでしょう、、、。
かなり親密な関係でない限り、ちょっとこのようなシチュエーションは不可能だと思います。
ちなみに医療従事者はその限りではありません。
患者(感染者)を診察中、処置中に、そのようなことが不意に起こる可能性は高いです。
もちろん「感染者」でない方からの飛沫は、飛沫感染の対象に入ることにはなりません。
飛沫を受けるのは、かなり近い距離にいる存在からです。
かなり近い距離に近づける、近づくことが許される存在です。
そのような存在はほとんど限られてきます。
そして、その限られた人が「感染」していたとしたら、それはすぐ気付くはずです。
・濃厚接触
手で触れること又は対面で会話することが可能な距離(目安として 2 メートル)で、必要な感染予防策なしで、「患者(確定例)」と接触があった者(患者の症状などから患者の感染性を総合的に判断する)。と定義されています。
「患者(確定例)」とは「感染者」と認定された人のことです。
ですから、認定されていない人と、2メートル以内の距離で触れたり、会話しても感染することはありません。
当然です。
・次の「三つの条件の重なり」に該当するところにいた。
⑴換気の悪い密閉空間(よどんだ空気の中)
⑵手の届く距離に多くの人が密集している。
⑶近距離での会話・発声がある。
これらの三つが重なった所にいた。
もちろん、このような環境に「感染者」がいなければ、三つが重なっても「感染者」になることはありません。
今の段階では、このようなものが主な従たる因・条件、つまりブッダの因縁の「縁」になると思います。
まとめてみます。
主たる因:感染者(新型コロナウィルス)
従たる因:「飛沫感染」「濃厚接触」「三つの条件の重なるところにいた」
となります。
「感染者(新型コロナウィルス)」があり、そして、「飛沫感染」があり、「濃厚接触」があり、「三つの条件の重なるにところにいた」という条件があって、「感染者」になることが可能になるわけです。
しかし、それだけでまだ「感染者」と「認定」されることはありません。
最終的には、「感染症のプロフェッショナル」に判定してもらわなければなりません。
検査を受けなければならないわけです。
そして、その上で、プロフェッショナルから認定してもらわなければならないのです。
つまり、「検査」「判定」も縁(条件)に加わってきます。
しかし、検査も医師判断により行われるようですから、そう簡単には受けられないのが現状です。
ちなみに、検査を受けるためには、次のような条件・症状(縁)も必要になっているようです。
・風邪の症状や37.5℃以上の発熱が4日以上続いている。
(解熱剤を飲み続けなければならないときを含みます)
・強いだるさ(倦怠感)や息苦しさ(呼吸困難)がある。
※高齢者や基礎疾患等のある方は、上の状態が2日程度続く場合。
といったものです。
このような症状(縁・条件)もクリアして、「検査」が受けられることになってくるでしょう。
そして、その「検査」のデータなどをもとに「陽性」と「判定」が出されて、それではじめて「感染者」だと堂々と名乗ることができるのです。
もちろん「陰性」と判定されることもあります。
しかし、その検査でさえ100%の精度ではありません。
100%の精度の検査など存在しない、ということです。
あくまで確率論の世界での話になるのです。
ということで、感染者となるための、従たる因(縁)である「飛沫感染」「濃厚接触」「三つの条件の重なるところ」「症状」「検査」「判定」「陽性」など、これらの「縁・条件」すべてを私たちは満たしているのでしょうか。
おそらく、ほとんど満たしていないと思います。
つまり、『これがないとき、これがない』という「因縁」の法則がここに当てはまることになります。
主たる因(感染者)があっても、従たる因(縁・条件)が揃わなければ、現象(感染・感染者)は現れません。
主たる因(感染者)がなければ、そもそも現象(感染・感染者)も現れません。
だとしたら、私たちのほとんどは「感染者」ではありませんし、感染の疑いもない、と言えるのではないでしょうか。
また、周りにそのような人が存在していることもほとんどないのではないでしょうか。
先ほどの「因」と「縁」に当てはめてみればわかるはずです。
そのような方がまわりにいらっしゃるでしょうか。
ちなみに静岡県内の感染者(陽性)は3人(3/16 12時現在)です。
つまり、この3人の方が主たる因とみることができます。
その3人の方は、確かに存在しました。
では、先ほど書きました「飛沫感染」「濃厚接触」などの縁(従たる因)を、この方々と持ったことがあるでしょうか。
3人のうち、2/28に県内で初めて感染が確認された静岡市内の60代の男性は、入院先で回復し、2回の検査で陰性と判定され、3/12に退院したとのことです。
エジプトツアーから帰国した、3人目となる清水区の60代の女性の場合、女性の行動履歴を確認した(防犯カメラ等)結果、感染リスクの高い「濃厚接触者」は親族(父親)以外にないと判断したと発表されました。
また、この女性は現在入院は続いているものの体調は回復し、安定しているとのことです。
さて、今現在静岡県内(身近)の感染者がこのような状況の中で、私たちは感染者と「縁」を持つことができるのでしょうか。
今のところ、この3人以外の感染者は出てきていないのですから。
そのうち二人は回復していますし、もう一人の方も入院されているのでしょうから、実質的には今身近に「感染者」はいない、ということになります。
どうやって感染の「縁」を持つことができるでしょう。
もし持っているとしたら、その人はここにはいないはずです。
感染症指定医療機関に、ほぼ強制的に入っているはずです。
このように観ると、やはり私たちのほとんどは感染者ではありません。
感染の疑いもほとんどないことになります。
なぜなら、「感染者」が今現在私たちの生活圏の中に存在してないからです。
国から、次のようなメッセージが出されています。
「現在、予防用にマスクを買われている方が多いですが、 感染症の拡大の効果的な予防には、風邪や感染症の疑いがある人たちに使ってもらうことが何より重要です。」と。
私たちは「感染症の疑い」がある人に入るのでしょうか。
先ほどの「因縁」でみればよくわかるはずです。
つまり、マスクに執着・固着する必要はありません。
マスクは「感染者」が飛沫防止を自ら実践するためにあります。
それがマスク着用の大前提です。
決して感染から自分を守るためにあるのではありません。
先ほど飛沫感染のところでも書きましたが、「感染者」からの飛沫をダイレクトに口、目、鼻に受け入れる確率がどれだけあるのでしょうか。
想像してみてください。
ほとんどないはずです。
医療従事者がマスクを着用したりするのは、偶発的に「患者(感染者)」から飛沫を受ける可能性があるからです。
しかし、私たちにはそのようなチャンスはほとんどありません。
ですから、ここまでマスクに執着・固着して買い占めする必要はないのです。
「新型コロナウィルス」について、「因縁」と合わせてここまで書いてきました。
さて、このように因縁の法則にもとづいて「新型コロナウィルス」という現象を説明したとして、人はそれを素直に聞き入れ、理性にもとづいて実行するでしょうか。
そんなことはありません。
素直に聞くこともしないでしょう。
また、理性にもとづいて実行することもないでしょう。
現実は「騒動」が世界的に起こっています。
それはまだ静まることはなさそうです。
そして、マスク不足という問題も消えていません。
人々は怯えています。
混乱しています。
不安に苛まれています。
さて、ここまで長々と「新型コロナウィルス」のことを書いてきたのは、「新型コロナウィルス」のことを説明したかったわけではありません。
このブログの冒頭に書きました「無智」について伝えたかったからです。
そして、人(生命)は「疑」という心に侵されてしまっている、ということを伝えたったからです。
それが本題となります。
本題については、次の「新型コロナウィルス」そして「無智」Vol2に書きましたので、そちらをお読みいただけたらと思います。
Vol2はこちらです。
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